6/30/2006

建築家が壊す都市の風景(2)

都市の美しさは何からか?という万人の定説はない。
しかし、少なくとも言えるのは、色彩、形など目に入る印象が「落ち着いている」のが条件であろう。住み、毎日を暮らしていくには、「疲れる」風景は禁物だ。
そのためには、建物の色、形に統一性が見られることも、異論が少ないところだ。

建築家は何をその商売の力としているか?言い換えると、建築主は何を建築家に期待しているか?
建築主は自己の建築物を周辺の平均的なものに合わせることを望んでいない。新たな建築物は権力・冨の象徴なのだ。出来るだけ、立派に見え、周辺の建物を圧倒するものを望む。その結果、周辺から浮き上がるようになることが必要なのだ。

建築家は何をもって能力としているか?同デザイン同構造のものを作っていては、建築設計の技とは言えない。

従って、このような建築家の存在理由に任していては、都市はグロテスクになるだけだ。

6/29/2006

建築家が壊す都市の風景

美しい国造りが叫ばれている。
日本の風景、とくに、都市の風景は他の欧米等と比べてなぜ美しくないのだろうか?

それは、建築家が個々の建物の設計において、町並みにマッチさせないからだと思う。
まちづくりのもう一つの主役、土木屋は仕事の特徴として、地域全体を考える習性があるが、建築家は自分の手がけた建物が良いかどうかだけだ。

建物の完成予想パースあるいは完成写真はなぜか周辺の建物を含む町並みを軽視している。(描かないか、薄い色にするなどのパース、写真にできるだけ入らないような構図)
だから、実際にそこを訪れて、評判のその建物を見て、色彩なり、形なり(奇抜さ、周辺からの浮き上がりなど)にビックリし、失望するのである。

6/26/2006

日本国民が有罪(2)

保阪正康『「きけわだつみのこえ」の戦後史』を読んだ。
「きけわだつみのこえ」は戦後出版されてから何度か改訂版が出ているが、いずれも政治的な改竄がなされつづけており、戦没学徒を冒涜するものだ、という内容だ。
そのなかに、戦没学徒に「戦争責任」はあるのかの議論があった。戦没学徒を含む『「全日本国民」の遠い責任』(木村久夫遺書)という言葉がある。保阪氏はその責任論を否定的に記述している。

反対にぼくは、日本人みんながおこした戦争だと思っている。
終戦の日、宮城前に額ずいたごく普通の人でも、力及ばず負けてしまって「申し訳ない」とい気持ちだったそうだ。謝罪反省は、天皇に対してかもしれないが、天皇が象徴としてある祖国・日本に対してだったろう。

6/24/2006

日本、またも楽観論で敗戦

「またも」の前回は、大本営発表に象徴される太平洋戦争敗戦だ。軍隊のなかでの精神優越絶対視による無責任楽観論だったが、それどころか、国民と偽りの楽観情報を共有して、自己満足した。

今回、ドイツワールドカップ予選リーグゼロ勝はこの民族的楽観論が真因だ。
初戦、豪州戦の先取点からして、ファウルによる取り消しを受けなかったのが超ラッキーだった、という現実を直視しなかった。
能力が劣っていたのは客観的な目で見れば明らかだ。精神力だけでは勝てない。60年前も同じだ。
三戦を振り返って、楽観的な希望を今後に持つのは、それはそれでよいが、能力を高めないと勝てない。

戦争も実力が劣っていたから負けた、という事実をどれだけ理解したのか。
前も今回も、勝ち負けより、お互い慰め合いが優先だったのですね。

6/23/2006

靖国神社は宗教施設でない

欧米先進国どの国の憲法にも信教の自由が定められている。
この場合の宗教の区別は、キリスト教でいえば、大きくはカトリックとプロテスタントなど宗派別の信仰の自由を言っている。米国大統領が就任宣誓のとき、バイブルに手を置いているのは、キリスト教かほかの宗教かはその場合問題とはなっていない。米国はキリスト教の国であるのが大前提となっている。
日本の神道のカミとか中国の道教の信仰対象(歴史上の人物)はキリスト教あるいはイスラム教の唯一絶対神とは明らかに違う。日本のカミガミと同じ音の神をGODの訳語としたことが間違いだった。

日本はカミガミに対する土俗的信仰(信心)なのだ。絶対神宗教のような高度かつ排他的なものではない。

明治から昭和の終戦まで、靖国神社に祀ることを約束して国家の戦争をしてきたのだから、死者に対し今更約束違反は絶対に出来ない。宗教法人靖国神社ではなく、国家施設の靖国神社にして、日本国が続く限り、未来永劫祀らないと、国が成り立たない。

6/19/2006

「天皇と東大」より日本国民が有罪

立花隆「天皇と東大」の大著を読了した。
明治憲法下の天皇制の変質に東大などの帝国大学が関与(抵抗)した経緯を詳説したものだ。

テロリズムの恐怖による右翼国家(社会)主義が日本を転落させた主因だが、それらに国民の支持もあったのは確かだ。典型的な独裁国家のロシア・ロマノフ朝でも国民国家の面もあった。まして、日本は明治憲法下の立憲君主制の民主主義国家だった。
立花氏の説く、大学人の努力・抵抗は多とするものの、国民の支持する方向に国が向かうのは、たとえ結果が悪くても、仕方のないことだ。

戦後、自然と一億総懺悔となったが、それが今に至るまで徹底していない。
「ナチスが悪くドイツ国民は悪くない」に影響され、「東京裁判のA級戦犯だけが悪い」とする、国民一般を戦争指導者から切り離す免罪の論が、政治的思惑で出されたからだ。
靖国問題でのA級戦犯分祀による解決論も同じことだ。

6/14/2006

安かろう悪かろう(エレベーター)

シンドラー社のエレベーターの納入先は公共の建物(住宅も含め)が多い。
日本には国内の優秀なエレベーター業者が目白押しだ。民間住宅・建築だと、(日本人向け)きめ細かな性能などを比較し、ほとんどが国内メーカーを選ぶことになる。
だから、シンドラー社など外国勢は価格競争が出来る(価格だけで決める)公共管理の建物にしか参入できない。
安かろう悪かろう、は昔からの真理だ。
メーカーと管理業者とで責任のなすり合いが行われている。国内メーカーの場合にも管理は別業者に委託することはあり得る話しだが、事故は少ない。
「シ」社がダンピング受注のしわ寄せで、管理費用をふっかけ、そのため、別の業者に委託(これも価格競争)することになり、「シ」社がメーカー責任の管理技術提供面で非協力となり、事故に繋がった、というのが真相だろう。
価格が安いものを選ぶという公共のシステムが破綻している。
維持管理費用を高くして、ダンピングの損を後日回収するということになりがちだ。

似たような例で、家庭用プリンター(C社E社など)がある。プリンターがあんなに安いはずがない。案の定、それしか使えない補充用インクを高くしている。
商業の道徳というものを考えているのだろうか?C社の社長は経済界のトップでもある。

6/13/2006

首都高都心環状は環状線に非ず

小泉首相肝いりの「日本橋川に空を取り戻す会」(第三回)が上空に景観阻害の元となっている首都高都心環状線のこの区間の約二キロを地下移転する案で合意した。4000ないし5000億円かかるという。
景観回復のためにこの額は多すぎないだろうか?キロ2000億以上もかかる。通常の地下道路(四車線)の場合、キロ1000億円(外環の例・・・用地費なしで)がよいところだ。

そもそもこの区間を含む都心環状線は環状道路の役割で建設されたものでない。建設の東京オリンピック当時の環状道路は高速のみならず地上の環七あるいは環八すら完成しておらず(環八は今年全通)、開通を急いだ放射高速道路どうしの都心部での接続を狙ったものだ。1から9号線までを一点で接続する構造はないので、環状接続となった。
いずれは撤去の予定だったのだろう。環八、中央環状、外環等が完成したあかつきには、都市交通上は通過交通は都心を通すべきではなく、これら環状線を利用させるべきだからだ。おまけに、この例のように景観阻害問題が残った。その他の区間でも河川上に建設したものでは河川景観も台無しだ。

解決策としては、移転ではなく、撤去とすべきだ。キロ1000億円の環状高速(中央環状あるいは外環等)の新設に限りある事業費を振り向ける方が合理的だ。

6/12/2006

やりすぎではなく、単なる法律違反

逮捕された堀江、村上両氏の評価で、「やりすぎた」というのがあるが、逮捕された理由は時代の先取の「やりすぎ」ではなく、昔からの犯罪行為だ。
前者は粉飾決算での時価総額操作、後者はインサイダー取引による売り抜けで、いずれも古くからの典型的経済犯罪だ。
しかも、ほりえもんと囃し立てられた堀江氏の場合、時価総額経営は高卒の宮内氏の頭脳を借り、企業買収は村上氏のアイデア拝借というから、この人本当に東大卒の天才なの?と疑ってしまう。
しかし、刑事被告人となったいまは、自分のしたことでない、と主張した方が有利なのは間違いない。

6/05/2006

宅配便が社会に不経済

駐車禁止が厳格化され、困っているのが、宅配便のトラックとか。
街で見かける宅配便トラックの配達行動は、止めやすい路上(駐車)地点をベースに、近所の配達先(複数)に手押し台車で小運搬している。配達先までいちいち車を移動したら、ガソリンも食うし、渋滞の元ともなり、合理的でない。
しかし、道路をデポ(物流拠点)のようにするから出来ることで、外部(社会への)不経済の典型だ。

トヨタのカンバン方式も部品メーカーから日々必要分だけの供給しか受けない在庫ゼロ方式に特徴があるというが、小口運搬になり、場合によっては道路渋滞の元となる。これも、道路を倉庫代わりにする(との自慢話は)犯罪的である。組み立て工場にも受入部品の倉庫が必要だ。

宅配便が安価で便利なのは、一つの要因として道路の公共性を私用に蚕食していたからだ。
この駐車禁止厳格化の機会にある程度高価になって、それでも宅配便がよいのか、再検討すべき時に来ている。
トヨタの車が安いのも同じで、膨大な利潤を蓄積するのでなく、一部を公共のための行動是正に使用したらどうか。

6/02/2006

駅前駐輪場反対

6/1より駐車違反に対し厳しさが増す。対象は自動車あるいはオートバイで、違反即罰金になる。
残る庶民の足、自転車には「駐車違反」のお咎めが少ない。
放置自転車には警告がなされたあと、撤去されるが、わずかな手数料を払って取り戻すことも出来るが、ぼろ自転車などは撤去されたまま受け取りに来ない。この間の行政の経費も馬鹿にならない。
個人の通勤通学買い物の交通手段だ。自己責任ですべて負担せよと言いたい。
ところが、駅前に駐輪場を整備するという。有料といっても、ごく少額で、すべてを受益者が負担するようになっていない。
もともとは、バスなどの運賃を払いたくない人が自転車を利用している。庶民の足ではなく、ケチの足なのだ。ケチが行政経費という税金を無駄食いする。
ここは、車と同列に扱って、放置即撤去そして(有価)処分にして欲しい。