8/31/2006

ぼくはスッチーのため飛行機に乗る

出張で飛行機を利用すると、機内ではスチュワーデスがきびきびと働く姿を目にする。あこがれの職場で彼女らの生き甲斐の仕事になっている様子が見て取れる。
そうだ、ぼくは彼女らの仕事を作るために飛行機に乗っているのだ、という気分になる。

東大キャンパスを時々散歩する。ここはマンモス校東大、その数多い学生を受け入れる仕事の施設なのだ。大学当局の大仕事の苦労が感じられる。最高学府と言うより、若者の四年間の生活支援施設なのだ。

世の中すべて、人と人との関係で仕事が生まれる。たいそうな仕事だ、と言っても、結局はそこに集約される。日本は一億の人間が生まれ死んでいく間の仕事を作り合う社会だ。
小泉さん、そして、安倍さん、そこをわかっていないとトップに立てませんぞ。

8/23/2006

記憶の修正・昭和天皇

昭和天皇発言メモがみつかった。これについて文藝春秋九月号「人声天語」で坪内祐三氏が昭和天皇に「記憶の修正」があったのではないか、と興味深い見方をしている。
昭和天皇も人間であり、戦後43年間に、靖国参拝などに関する世の中の議論に接し、終戦直後の記憶が知らず修正されたことも考えられる。靖国参拝に関し、公人私人の区別の政教分離、A級戦犯の合祀、など論点に対するお考えのうち、天皇の戦争責任が問われた当時のご判断の記憶が修正され、晩年のこの発言になった、というのだ。これこそ、人間・天皇というべきか。
そうでなければ、部下である松岡、白鳥らに責任転嫁などはできない。昭和天皇は立憲君主制の模範君主だったのだから。(同じ九月号で、福田和也氏は、だからスターリンの独裁ソ連に負けた、と言う。勝ち負けだけを議論すれば、立憲君主より戦時独裁体制がよいと)

似たような「記憶の修正」で、戦場の白兵戦の回想文がある。
銃弾が飛び交う、敵味方が接する前線全体の記述があるが、各兵は匍匐射撃しているので、高い位置から全体を見られるような記憶というのはあり得ない。あとで色々聞いたことも付け加えて記述しているのだ。
だから、戦記というのはその時に書いたものでなければ、創作部分が多いと、たしか山本七平氏が言っていた。

8/18/2006

大人・中国人が・・・

大人(たいじん)、大人(おとな)の気風の人・中国人だ。
おとなは他人の行動の細かいところに介入しない。とくに、中国人はそうだ。
自身の金儲けに一所懸命だから、他人のことに構っていられない。世界の都市で物売りにつきまとわれないのは、中国系の国だけだ。

靖国でその中国人が変わってしまった。
民族敗北の歴史が余程悔しいのか。
中共政権下の見せかけの民意か。それとも対策的民意の偽行か。

以前、大連旅順に行ったとき、ガイドの中国人は日本の植民地時代に造った建物を感謝して、「日本は40年間居て、建物を残してくれた」(植民地収奪主義だったら移動できないものは作らない)と、日本を褒め、その前のロシアをけなしていた。

韓国が日本時代の建物をわざわざこれ見よがしに壊すのと対照的だ。
中韓と一緒くたに言うが、大きな違いがある。

8/15/2006

今回は官製しなかった

小泉首相の8/15靖国神社参拝に中韓両国は抗議した。中国は、参拝が中国人民の感情を傷つけた、としている。本当だろうか?

中国(シナ)は昔から、上に政策があれば、下に対策あり、といわれた民主主義不在の国柄だ。下の人民の感情が本当はどうなっているか外からは知ることができない。
ただ、昨年春の日本の国連安保理常任理事国入りに反対する上海市民の暴動など、民主主義投票行動によらなくても、人民の感情が洩れ見えることがある。
しかし、あれは官製(官許)デモだった。証拠は、今回を見ればわかる。今回、大規模な暴力行為にいたるデモは発生していない。上が許さないからだ。

人民日報のウェブサイトである人民網(ネット)は「日本は・・・外交問題が発生すると中国を不満のはけ口にすることができる。」と、靖国参拝を国内政治の手段として使っていると解説する。
自分たちの常なる行動様式を、相手もとるものだと考えている。不満のはけ口が上海官製デモだった、と白状しているようなものだ。
まさに、蟹はその甲羅に似せて穴を掘る、である。

8/11/2006

中国の自国向け理屈

中国は日本人の戦争責任には、戦争の罪は一部の指導者にあり、大多数の日本人に罪はない、という論法で赦すのだとしてきた。だから、A級戦犯の祀られている靖国神社に参拝するなどに怒っている。中国の論法に合わない行動を日本がとるからだ。
ドイツもその理屈で、罪をナチスに押しつけて、ドイツ国民に罪はない、と平気だ。さらには、日本もドイツを見習うべきだ、とわざわざ言う始末。

しかし、日本にはドイツのヒトラーのような独裁者はいなかった。独裁体制もなかった。東京裁判でも、戦争共同謀議が成立しなかった。明治憲法下で民主主義が最後まで崩れなかったのだ。だから、戦争に罪があるとすれば、それは国民みんなの罪だ。戦時中の作家による戦果などに関する文章を読むと、国民(の心が一体となった)の戦争だったことがわかる。
一方ドイツはというと、ナチスの政党は民主的に政権をとった。それなのに、国民を免罪し、罪をナチスだけになすりつけるのは、ズルイと言うしかない。
中国こそ、政府と人民は、共産主義の建前にもかかわらず遊離し、一党独裁体制になっている。中国王朝(中共も王朝の一種)が滅亡するとき、人民には関係ない。これが彼らの本当の理屈で、歴代のシナの王朝の盛衰はすべてこのパターンだ。
それを日本に対する理屈にも使っている。まさに、蟹はその甲羅に似せて穴を掘る、である。

8/10/2006

靖国(不)参拝も公約の一つ

総理大臣が靖国神社に参拝するのに、公人としてか私人としてか、という愚問がある。公人に決まっている。総理大臣は四六時中公人だ。

一国の最高責任者が靖国神社を参拝することの是非は(小泉氏の個人の自由ではなく)国民の総意で決めるべきだ(諸外国の介入するところでない、という意味もある)。
小泉首相は靖国神社に(8/15に)参拝することを公約して、自民党総裁になり、総理となった。その後何回かの選挙の洗礼も受けている。国民の総意は「首相は靖国神社に参拝すべし」なのだ。

次期(自民党総裁)総理候補もあらかじめこの点をはっきりさせておいたほうがよい。
最有力の安倍氏は靖国参拝の意義を強調するが、参拝するしないははっきりしない。
麻生氏は条件整備後、参拝する意向のようだ。
谷垣氏は当面参拝しないが、そのあとは未定だ。

これだけ、国民の間で議論となっているのだから、中国韓国は無視して、国民向けに方針をあらかじめ示して欲しい。そうでないと、そのたびに混乱する。

8/09/2006

浮動票を政治から除外する

三年前のNHKでの小泉首相のインタビュー。
イラク戦争開始時のブッシュ会見後の首相コメントが言葉足らずだったのをフォローするのに「日露戦争後の世論が継戦を要求し、日比谷焼き討ち事件まで起こしたのは、あとになって見たら、世論が間違えていた例だ」と言いのけた。

長野県の田中前知事の敗戦の弁。「投票率が低すぎた」

いずれも、民意なるものへの感想だ。田中氏は浮動票なる民意に支持され六年前に知事になり、今回、浮動民意に逃げられた。小泉氏も民意頼りだったが、浮動的だということを理解している。

支持政党なし無党派というが、浮動票といわれるように、気まぐれこの上ない。しかし(地方部)長野では、名物知事を当選させ、落選させたから、意味がないわけではない。
問題は、大都市圏選挙区での浮動票だ。浮動しっぱなしで、投票所に来たことがない無党派層も多い。気まぐれ、あるいは、永久無関心な有権者だったら、この際、民意の数からはずしたらどうだろうか?

一票の格差が問題となっているが、大都市圏の選挙区の棄権票分(白票ではない)は有権者数からあらかじめ除外したら、地方部との格差問題はなくなる。

8/06/2006

東アジア三カ国の不適切な関係

韓国は実効支配している竹島の領有問題をことさらに荒立てようとしている。日本が実効支配している尖閣諸島に対しては日本は音無しなのと対照的だ。
韓国は、領土問題の対処を間違えているのではなく、日本の過去の植民地主義の落とし前をつけようとしているのだ。
中韓両国は、日本の総理大臣が自国内の戦争犠牲者慰霊施設に参拝するのに抗議している。小泉首相は慰霊に際し、好戦でなく(当たり前だが)、不戦の誓いをたてている。内政干渉そのもののこの抗議は全く不当で無意味なものだ。

中韓両国の日本へのこのような態度は明らかに合理的でない。しかし、これに対するに、日本にもおかしな態度が見られる。それらがこの三国間の「不適切」な関係になっている。

日本は中韓の不当な対応には断固反発すべきなのだ。
靖国神社への参拝には「適切に判断する」、と曖昧に言うのでなく、中韓両国は不当にも日本の首相の心の問題に干渉しているが、私(小泉)は断固参拝する、何月何日に、と明言すべきだ。
行くような行かないような曖昧な態度をとられたら、中韓の指導者は生殺しの状態に置かれてしまい、そのうえ参拝されたら両国民に対して面子を失う。はっきり言った方が、両国の国内政治的にはうまく収められる。

中曽根首相(当時)が胡耀邦総書記(当時)に対する惻隠の情で不参拝を決めたのは、中国的常識からいったら、要らぬことだった。惻隠の情など日本人にしか通用しない。

8/04/2006

スポーツに見る日本人の健全な愛国心

明らかな誤判定で日本選手がボクシング世界チャンピオンになった。その中継TVは見ていないが、日本のファンの多くが相手のベネズエラの選手を激励するニュースに接し考えさせられた。
日本人の健全な愛国心がスポーツのフェアプレー精神に従ったのだ。

ドイツWCサッカーの日本代表チームにはがっかりさせられた。愛国心で応援するのがためらわれたほど、能力気力が劣っていた。おかげでというか、日本チームがいない決勝トーナメントをサッカー愛好の純真な気持ちで観戦できた。健全な愛国心というか愛国心を超えた世界のスポーツの楽しみ方だ。

隣の韓国、あるいは中国は、日本人のこのレベルに達していない。