8/28/2008

アフガンに必要な警察支援

 アフガニスタンでNGO活動の伊藤さんが殺された。農業支援で地元民の多数の理解を得ていて、この事件だった。
 アフガンは当初の内戦状態は米軍他の介入で収まっているのだろうが、それでも治安が乱れたままで、警察による維持が必要だったのだろう。相手が武装しているので。(中国風)武装警察が必要だ。日本で言えば専守防衛の自衛隊が最適だ。その警察活動の支援をしていない国(たとえば日本)の人でも区別なしに、外国人(外国の文化)を排斥する意味で、殺害したと犯行声明が出ている。江戸時代末期の(無差別)攘夷みたいなものだ。 当時も幕府を困らせる意味だったようだ。アフガンでもカルザイ政権を困らせる目的で外国人を無差別に攻撃しているという。
 だから、このような民間団体による社会支援活動の段階ではなく、警察力(軽度の軍事力)による社会秩序維持活動が必要だ。インド洋で給油だけ、で良いとは思われない。

8/27/2008

南オセチアとコソボ、EUとロシアはダブルスタンダード

 ロシアがグルジア共和国内のアブハジア自治共和国、南オセチア自治州の独立を承認したことで、欧米諸国の反発を受けている。20世紀末にソビエト連邦が崩壊し、ロシア他の共和国などに分解したが、その一つのグルジア共和国内にも異民族の自治州など(自治共和国の名も)が存在していた。ロシア連邦共和国内にも北オセチア共和国あるいはチェチェン共和国など問題の自治州などがあるからお互い様だ。
 類似で、ユーゴスラビアが崩壊したあとのセルビア共和国内にもコソボ自治州があり、コソボの一方的な独立宣言をEUなどは承認している。
 チベットは中華人民共和国内に留まり、大幅な自治権が与えられればよい、としている。前記の例で言えば、自治国でもよい、ということだ。
 民族自決だと、民族毎に乱立モザイク小国家となってしまい、国家としての最小規模を下回るなど不都合だ。ある程度のまとまりで多民族でも国家を形成していく共有認識が欲しい。

8/25/2008

五輪野球は不調の選手を切ることが必要だった

 文痴はオリンピックは見ないと誓ったが、サッカーとプロ野球は好きだ。だから、日本が敗退したあとのそれらの頂上対決は見たのだ。
 サッカーはアルゼンチンvsナイジェリア。下手なチーム同士とは点数(差)が同じでも、明らかに違う。「ア」のメッシ選手はさすがだ。「ナ」チームもその実力に一目置いている。
 野球のもう一方の準決勝も見た。米国vsキューバで、キューバのパワー野球に感銘した。バットは思いっきり振るものだ。その流れで、決勝の対韓国戦を見たが、負けたのが信じられない。
 星野ジャパンが負けた理由がマスコミを賑わしている。文痴の考えでは、24人の選手全員に見せ場を作ってやろうという、星野流温情(厳しさでない)が仇になった。オールスターゲームのときも、ファン投票あるいは監督選出の選手を全員出場させなければならない(とは限らないが、事実上そうせざるを得ない)のが、監督采配を鈍くさせている。
 予選リーグで決勝進出が見えた段階で、選手をいろいろ試し、決勝トーナメントの二試合ではそれらの結果の好調選手に限って起用すべきだった。

8/22/2008

スーパー店内は消費者による市場

 漁業者の獲ったサンマが100円/kgで産地市場で取引され、消費地市場を経てスーパーの店頭では400円/kgになるという。燃油価格が上がっても、400円は変わらないので100円もそのままだという。そこで、両市場でのマージンを抜くため、産地からスーパーへ直接卸すことも考えているらしい。しかし、これでも400円は変わらない。
 原価が上がっているのに、小売価格が上がらないのは不思議かもしれない。しかし、考えてみれば、消費者の主婦は、サンマの原価が上がった(と聞いている)からスーパーでも高くても仕方がない、とは絶対に考えない。食材はサンマ以外の魚もある。肉もある。野菜もある。穀物果物もある。すべてを比較して、カロリー栄養と値段をすばやくカンピューターで計算する。そこで、400円を超えたサンマは売れなくなる。スーパーの売り子はそれがわかっているから、ギリギリの400円にする。これは一種の食料品市場機能を果たしていると言えないか?

8/21/2008

「2020年の日本人」その3

 著者の松谷氏は年金等社会福祉の破綻の危険にも言及している。年金財政の苦境に対処した小手先の改正をそのたびに重ねると、不信のもととなるし、人生生活設計も出来ない。究極の人口とその労働力率を視野において、年金等の設計を明らかにすべきという点はうなずける。
 ただ、年金が成り立つ人口年齢別構成すなわち多数の労働人口(分母)が少数の年金受給者(分子)を支える構造が今のままだと崩壊せざるを得ない。その解決策が必要なのだ。
 文痴の考えは、65歳以上は労働を終え、年金受給のみ、としている年齢の考えを徐々に変えていくことだ。人生80年以上の時代になって、65~75才くらいまでは人によるが職種を選べば働ける。昔と違って、肉体を駆使しあるいは精神的にハードな仕事というものは、IT化などにより(老人でも)より楽に処理することが出来るようになった。これからの65歳以上はITにも長けているのだから。分子の人が分母に少しでも移るようになれば、二重に年金財政が助かることになる。

8/20/2008

「2020年の日本人」その2

 著者の松谷氏は、日本の工業生産品の競争力は薄利多売に求められてきて、それは労働分配率が低く抑えてきたからだが、それができたのは、生活(必要最少)給の考えからだという。これからは付加価値の高い製品をそれなりの高い値段で売り、利益の再投資分を給与により多く回し、最少以上の豊かな生活を取り戻すべきだ、としている。
 文痴がおかしいと思うのは、「薄利多売」が日本製品の競争力、の部分だ。薄利多売は中国製品の間違いでないのか。日本製のものは技術力に裏打ちされた確実な製品で、それなりのリーズナブルな価格で供給できたから、競争力があった(車、家電)。特殊な手工業品で高価格のものならば、欧州などで有名なものがある(スイス時計など)が、それらはあくまでも汎用品ではなく、趣味のものだったりする。これらに日本が生産対象を切り替えていくには、市場規模が小さすぎる。それとも日本が負けている情報分野なのか?ノキアの携帯、インテルのCPUなどがそれだが、これら最終製品にも日本製の素材・部品が高価格で組み込まれている(大前研一氏による) 。
 労働分配率を高めるといっても、グローバルな労働市場にある現在、日本企業だけが賃金を上げたら競争力がなくなってしまう。いま、中国人単純労働者に出来ない少し高度な労働を日本人がしているから、給与水準がそれなりに高くなっている。派遣労働者のうち単純労働しかできないものは中国人と同程度の低賃金にならざるを得ない。そうでなければ、中国で生産し輸入することになる。

8/19/2008

「2020年の日本人」読後考える

 松谷明彦著「2020年の日本人」を読んだ。日本はすでに人口減の時代に入っているが、少子高齢化に伴う高齢者の増加による労働人口率(労働人口中の実際に労働する人の率)も減少し、2020年には労働人口(人口×労働人口率)は半減し、GDPが激減するという。
 人口減と高齢化は確実な未来で、言われてみればそうに違いはない。松谷氏は、だから日本独自の消費社会を構築して、投資(民は設備投資、官は公共投資)重視の経済運営を改めなければならないとするが、文痴の結論は少し違う。
 やはり、総需要が足りない。日本人の安定志向で、ハイリスクな投資先は全滅に近い。株式市場が低迷していることからもわかる。確実な投資先、公共事業が必要だ。もちろん、社会インフラとして効果の高いものに限定すべきだ。道路で言えば、必要な道路に。景気浮揚のためだけの公共事業は今の時代、必要ない。
 言い換えると、個人の余裕資金あるいは企業の社内留保は自己のために使う必要性が残っていない。個別にはすでにかなりのものがそろっているからだ。だからその資金は、貯蓄に回っているので、その行き先は各個人では投資できない共同施設すなわち公共施設に向かわなければならない、という理屈だ。

8/18/2008

スポーツ応援民度を隠す(中国)

 文痴はオリンピックとそのニュースは見ないが、関連のニュースには興味がある。新聞によると女子マラソンの沿道応援では当局に選別されたものが各国選手に対し分け隔てなく応援した、とある。
 チベット弾圧への抗議活動あるいは応援者同士のトラブル、アテネでの抱きつき事件などいろいろと不始末を想定し、そのような規制にしたのだろう。でも、文痴が関心のあったのは、重慶市ほかアジアカップサッカーでの日本選手に対する中国サポーターのフーリガン的騒動がその後改善されたのか?そのような民度の低さを中国近代化に伴い上げることができたのか?だった。国威発揚に伴うものだからというかもしれないが、東京オリンピック当時の日本も国威発揚はあった。その点中国だけを嗤えないが、日本で民度の低さがあったとしたら(なかったと思うが)、社会運動として民度を上げる努力をするはずだ。中国の解決方法は民度を隠すらしい。
 中国共産党政府は国民に対する統治能力がないのだろう。

8/14/2008

オリンピックから逃げられない

 8/13に文痴は「オリンピックは見ない」と宣言した。 この間ニュースしか見るものはないとしていたが・・・
 しかし、その後TVニュースはどこの局もトップニュースは「金メダル」のオンパレードだ。新聞も第一面のほとんどが「金メダル」だ。したがって、「オリンピックを見ない」ためにはTVとか新聞に接することはできない。
 当然だが、それらは日本人の「金メダル」。在日の外国人は自国の活躍がわからない。
 おまけに、高校野球は勝者が絞られてくるとクライマックス状態だ。
 以上が国営放送NHKの実態だ。8月分だけ聴視料を払いたくない。新聞は一面とスポーツ面だけ見ないとしても少しは価値がある。TVはスイッチを入れられない。早く9月よ来い。

8/12/2008

オリンピックは見ない

 中国の国威発揚の感がある北京五輪だが、日本もTV新聞などは日本選手の活躍「だけ」を伝える。愛国心に訴える状況はどこでも同じことだ。
 いい加減に国別の伝え方、視聴者の見方はやめるべきだ。いまどきスポーツによる愛国心など時代の進歩に後れている。中国など遅れた国で統治手段としての愛国心発揚は仕方のない面はある。少し前までは「反日」が愛国心への手段だった。いまはオリンピックなど中国人の大国意識をくすぐるものが目白押しだから、反日は手段として不要になったのだろう。毒ギョーザ事件も真相を出してもかまわなくなった。
 文痴はいまTV・新聞でオリンピック競技内容は全く見ないようにしている。チャンネルが多いから、それでもTV生活は十分だ。ただ、ニュースの中(新聞一面)に不時に目に飛び込んでくるのは防ぎようがない。早くオリンピックが終わることを心待ちにしている。
 2006WCサッカーでは日本が早々に負けてくれたので、あとは、国を意識せずに世界の名プレーを堪能できた。スポーツはあくまで名プレーを追求するものですぞ。

8/11/2008

高速道路の借金は急いで返すことはない

 政府の経済対策の一つで高速道路料金の引き下げが検討されている。もともと諸外国の倍の水準だし、物流・レジャーを盛んにする経済対策になるし、これら業界の燃料高騰対策にもなる。漁船の重油ばかりに直接に補助するのは単一の業界を優遇する不公平施策だ。
 このような国の借金がらみの新施策のとき必ず反対されるのが、借金を返さなくて国につけを回して良いのか?という論だ。彼らが金科玉条とする45年で返済するスキームが破綻するのは、不測の金利上昇と交通量(利用車)減少とこの政策的値下げですから。
 しかし、政府は高速道路各社に値下げによる減益分を補填するので、45年の返済期間には影響しない。でも、借金を早く返すことがそんなに重要なのだろうか?道路に対する債権は安全確実、日本国民の投資対象として最適だ。その分は永久に返さなくてよいのでは?と、過激に考えている。
(参考)高速道路は国民の投資対象

8/06/2008

隠れ借金(公債)はいいのか

 地方自治体の財政状況が悪化して、所有の公共施設の維持管理もままならないという。そこで出てきたのが民間資金活用のPFIだ。SPC(特定目的会社)に資金調達までも委ねて、何十年か維持管理をしてもらう。自治体のほうは毎年、管理委託費を支払う、というスキームだ。
 でも、これは一時的な資金不足を毎年の分割払いに替えることと同じではないか?それなら地方債を一時に発行して大改修を行って自ら維持管理するのと変わらない。自ら借金するのは公債が増加するからだめ、というのは、PFIも隠れ借金と同じだから、理屈に合わない。

8/04/2008

憂鬱な夏のスポーツ三つ

 野球好きの文痴にも憂鬱な夏がやってきた。まずは、終わったが、プロ野球オールスターゲーム。真剣勝負とはほど遠い。直球しか投げないとは、投手(と捕手)の対打者心理作戦を放棄している。それでも、昔はセパ異リーグのスター選手の対決が楽しみだったが、数年前からは、交流試合がペナントレースに組み込まれた(これは真剣勝負)。
 高校野球は最初から興味がない。知っている選手もいないし、プレーが拙劣だ。自由にすべき青少年にこのときだけ精神主義を強制する大人の身勝手さが許せない。(プロのチームで悪いことをした選手がいたら、その選手限りなのは当たり前)
 ことしはこれらに重なって、北京オリンピックときた。アマチュア精神から正反対の商業主義。今回は中国の国威発揚の舞台。TVで見るのさえ歴史的罪になるのではないかと、チベットのことを考えつつ、憂鬱な夏を過ごす。

8/01/2008

日本人特有の言論不一致

 「行政は何をしていた」とは、何か事件が起きたとき日本人が追求する言葉だ。日頃、民でできることは民に、と言っていたことを忘れ去った言論だ。
 「国の基準はどうなっている」とは、地方で事件が起きたときの最後のつけ回し先だ。地方分権だから、地方で決めるべきではないのか?県民がこうでは、地方分権旗ふりの知事さんたちがかわいそうだ。
 所詮日本は、(明治以来の)官尊民卑、中央集権国家のままで、これをなおすには、まずは国民の頭の中身を替える必要がある。江戸時代の封建制度がよかった。封建とは地方分権のことだ。また、武士は威張っていたけれど、実力があったのは商人だった。