10/21/2025

「高市市場」は反庶民

高市内閣が発足する期待で東証株価が5万円をうかがう高値となっている。ドル円の為替も円安水準に。

これらはいずれも庶民の暮らしの観点からの新内閣期待に基づくものではない。後者の円安だが、輸出関連企業にとって、製品原価がほとんど輸入物資によるドル建てで加工貿易としては為替水準は中立だ。しかし、そのうち国内人件費だけはドル高(円安)になるとドル建て原価の中で唯一減ずることができる。つまりは国内労働者の「ドル建て換算」賃金が円安で安くなることで、製品価格の輸出競争力がでてくる。

つまりは円安で輸出競争力が大きくなるのは、労働者の犠牲のもとからになる。実際、国内労働者の賃金は輸入物価の高騰で苦しくなるばかりだ。円安が庶民の苦しみを増加させるメカニズムだ。

東証プライム株式市場は輸出関連大企業(あるいは対外投資企業)でほとんどが構成される。高市市場で空前の株価となるのは不思議でない。庶民のために物価対策で何をしてくれるか監視が必要だ。それができないサナエノミクスでは次の総選挙で再び退潮すること間違いなしだ。まずは円安是正が試金石だろう。

10/03/2025

近頃都に流行るありがたきもの(続)

子連れの若夫婦だ。

若いカップルはふたりでショッピングなどを楽しみたいだろう。しかし、幼児がいると連れて行かなければならない。結構大変な「デート」になるが、めげずに出かけるのを渋谷でも目にする。

このような家族が日本の20年後を担う子どもを育てる。微笑ましいと同時に頭がさがる思いになる。

かつての渋谷はコギャルに代表される未成年の街だった。それが風変わりしている。

10/02/2025

近頃都に流行るありがたきもの

都と言っても渋谷繁華街でのことだ。インバウンド観光客であふれているのはいつものことだが、その観光客を見るにつれ、外貨を日本に落としてくれるありがたい存在として見えてしまう。

日本の昔は貧乏で、海外から日本にない資源を輸入する外貨が欠乏していた。その外貨を稼ぐ輸出が貿易立国・日本の至上命題だった。いま主要輸出国の米国から輸入を拒否するような高関税をかけられてあたふたしているが、その昔ならそれでは日本が滅亡してしまうほど大事件だ。その外貨を円に両替して消費(輸出に当たる)してくれるインバウンド観光客。当時の「輸出振興」をつい連想してしまった。古い人間なのだ。

だからインバウンド観光客を見ると、心の中では感謝の気持ちを持ってしまう。

ところで、某政党の公約の「日本人ファースト」をみて、特定の外国人排斥を連想する日本人は多いと思う。しかし、特定国の国民がすべて悪いはずがない。人格優れた人もいるし、そうでない人もいる。日本人でもそうだ。人を「〇〇国人だから」という属性で判断できない。

それにしても渋谷の街で外国旅行客間で流行っている1人乗り低車高「ストリートカート」の車列は困る。ただ走るのを楽しむだけでは道路の使用目的から外れるのではないか?日本人が楽しんでいるのを見たことはない。

しかし、インバウンドと無関係の「広告トラック」は広告スペースとして渋谷のメインストリートを占用する。これは日本人が考えたよくないものだ。

9/17/2025

将の代わりに射られる馬(二題)

「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」という故事がある。

将が強大な場合、まずは騎乗する馬を射るのが合理的だ。その将として例えられるのはまずは米国。米国の走狗のイスラエルを代わりに攻めるパレスチナ。そのイスラエルを反米勢力は非難する。それが米国を遠回りに反対することになるからだ。

飯山陽氏によると中東専門家のほとんどは中東情勢を反米の心情から論じているそうだ。

もう一つはアベ一強だ。安倍晋三氏の政治基盤は強く、生前はそれを反アベは崩すことができなかった。死後、山上容疑者が恨んでいて安倍氏が関係していた旧統一教会を全マスコミそろって叩く。馬上の将はいなくなったのに馬だけ追いかけるのはいかにも可笑しい。

8/28/2025

ブームの再エネ、再拡大は時期尚早

釧路湿原の自然保護地域に隣接する普通の地域で、メガソーラー建設反対運動が起きている。丹頂鶴は隣接していればエサを探しに来る。

日本にはメガソーラで大規模に土地改変してよい土地はそもそも残っていない。狭い国土なので、荒れ地と呼ばれるソーラー以外の利用が全くできない土地というものがない。ソーラーはメガでなく、都市に細かく設置すべきものだ。砂漠などの荒れ地が豊富にある大きな国とは違う。

風力発電適地(海域)も同様だ。先進の欧州のように着底が容易に可能な遠浅の海岸がない。あっても干潟漁業と競合する。そこで、浮体式風力発電が叫ばれたが、経済的にはまだ成熟している技術とは言えない。三菱商事はじめが工区海岸の権利を放棄したのは、経済的にペイしないからだ。

再エネにFIT優遇してまで促進したのはよいが、いまは、更に一段の技術開発が必要な時期(階段踊り場のようなもの)で、技術開発の進行を待つべきだ。変動が激しい再エネ発電の調整電源(蓄電池など)の開発も待たなければならないので、これ以上の電力量開発は遠慮すべきだ。

8/26/2025

問題は彫像など公共空間展示

少女裸像が公園などの公共空間に展示されているのは「不快」「恥ずかしい」などとして撤去の要求が続出している。問題はそれだけでなく、公共空間へのすべての彫像などの展示の是非だ。

彫像には単に芸術性を主張するものだけでなく、軍人・英雄の像は価値観を強制するものでもある。芸術性があるかは見る人の主観による。芸術性を感じ「ない」とする人にも見えてしまう公共空間に展示するのは馬鹿げている。美術館なりの閉鎖空間に展示すべきものだ。絵画とか手工芸品は屋外に展示できないこともあり、屋内展示となっているではないか。成熟した日本社会では以上のような万人に向けた配慮が必要だ。
特殊な空間にそれに適した像を設置するケースはある。私も行った、台湾の烏山頭ダムでの八田與一像。そして、長崎の平和祈念像(芸術性はない)。

芸術でも音楽は街中に流して通行人に聴くことを強制はしない。

韓国人によって世界中に慰安婦(を象徴する)少女像が設置されている。これもその設置都市での公共空間への配慮が求められるケースだろう。慰安婦が強制連行されたかどうかは議論の上、結論が得られるまでに象徴展示を強行するのは意味がない。

8/15/2025

戦禍の語り継ぎだけで再びの戦争はなくならない

戦禍を後世に伝えて再びの惨禍を被らないようにしよう、というスローガンが叫ばれ続けられた。

しかしこれらの繰り返しで、戦争が終わることはなかった。現に国連の常任理事国で世界の平和に責任あるロシアがウクライナ相手に戦争を継続中だ。

核兵器は大量破壊兵器で非戦闘員まで巻き添えで被害を及ぼす。非人道的そのものだが、通常兵器でも都市空襲に使われる焼夷弾なども同様だ。人間を焼き殺すだけの目的だ。殺人兵器には変わりはない。だから、核兵器廃絶だけでなく、通常兵器の軍縮も同様に進めなければバランスを欠く。

冒頭のスローガンだけでは戦争はなくならない。欠けていることは、国家の指導者が開戦する意志決定したプロセスを検証し、それを否定論却することだ。民主主義国家だったら、それを国の政治の基本とする。専制的国家でも、よって立つ国民の幸福を考えない指導者はいないだろう。戦争は国同士の相互作用だ。防衛的戦争という逃げ道があり得るが、それも厳密に成り立つのか検証する。

直近の第2次世界大戦も「勝てば官軍」的戦後処理しかなされてこなかった。それに少しでも異を唱えると「歴史修正主義」だとして排撃されてしまう。そうでなく、終戦後数十年を経ているからこそ戦勝戦敗両側が冷静になって戦争の意志決定の歴史検証議論ができる。

以上が戦禍の語り継ぎに加わってこそ再びの戦争を防ぐ方法だ。

8/05/2025

中山間地水田農業は撤退せよ

増産が期待されている稲作が今年も不作が予想されている。異常高温と少雨の気象悪条件からだ。高温には湛水による冷却が有効だ。それも天水に頼る中山間地の棚田には無効だ。少雨が続くと小さな谷に流れる湧き水が枯渇する。

そもそも谷の水に頼る小規模水田は渇水に弱い。麓の水田は大きな河川の農業水利がある。大きな河川では比較的水量が保つものだ。そして、上流にダムとか溜池の農業利水補給施設があれば安心だ。

中山間地水田は気象条件によっては不作が続出する。そうなっても農業共済組合が救ってくれる。不作に備え水利施設に投資するのでなく、金銭補償を受ける。こうなると全国のコメ市場の需給に影響し、今年も3年続きで消費者価格が高騰する。(豊作の時は価格低迷)

中山間地の農業、とくに稲作はあきらめたらどうか?規模の利益もなく、気象変化に弱い、そのような農業は近代産業の資格がない。米国では麦作、大豆などは世界商品市場の対象になるほど近代化されている。大規模農家も気象予測を綿密にして、さらには競合農家の作付状況を見て、今年の作付けと収穫時期などを有利にする予想をたてる。科学を総動員するのだ。日本の農家が気象の変化まであきらめてみるのとは大違いだ。

麓の水田だけで大規模化を図り消費者に価格面で迷惑をかけない日本の農業を期待する。

7/19/2025

選挙は一か八かだ

一か八か、は博打の覚悟で、丁半50%の確率で勝負が決まる。選挙ではどちらかの党が過半数の支持を得られれば議席を獲得できる。今回の参院選でも地方の1人区が注目を浴びている。2人区以上だったら、痛み分けとなり、議席配分に大変化は期待できない。従って有権者の投票意欲も減退する。一票の価値が少なくなるからだ。

与党の自公が支持を失いつつある今回、オセロゲームのような大変化が起こるのはその「小選挙区」各県からだ。だから、いつもは感心を呼ばない参院選が熱くなる。参院は必要ないという声が大きい。しかし、不定時の衆院選の間に必ず半数改選の参院選は必ずやってくる「中間選挙」だ。その意味では参院の存在意義はある。

明日の選挙日にはその意味でバカにしないで投票して欲しい。(選管みたいな言い方になった)

6/30/2025

「もらう」わけでない薬

古くから使われている日本語表現で気になるのが、「お医者さんからもらった薬」というのがある。

以前は医薬分業になっていなかったので、病院で処方薬を出して「もらって」いた。この「もらう」がその後の薬局でも使われている。保険診療だからいずれも患者負担は3〜1割負担と軽いが、「もらう」の意味のタダではない。

このたびOTC類似薬は保険対象から除外して、薬局での市販薬と同様(100%負担だ)医師処方なしで買うことになる。これを機会に処方薬も「薬をもらった」との表現はやめにしたらどうか?

ちなみに、情報など無形のものは「もらったが、代金は○○円だった」とは言うが、形あるものは「もらった」とは買ったのではなく、無料での意味だ。