4/23/2021

「ゼロコロナ」は「非武装中立」と同じ心性

新型コロナとの「戦争」になっているが、本物の戦争と似たところがある。戦死者を1人も出してはいけない、となると戦争はできなくなる。戦争というものは兵隊の損耗をある程度覚悟して、対戦国とどちらが勝つかが決まる。もし戦死者を出すのが一切ダメなら、非武装中立(非同盟)で、相手国が攻めてきたときにはすぐに降参するしかない。そして占領・支配されて「カエルの平和」(百田尚樹氏)の隷属状態に。

新型コロナウイルスに感染すると、ふつうのかぜとは違って、2%程度は重症化した後、死に至ることがある。だから、感染者をゼロにしよう、そうすれば死ぬ人はいなくなる、というのが「ゼロコロナ」の考えだ。ゼロにするには全国をロックダウンして人と人との接触を断ち、ウイルスが皆無になるまで待たなくてはならない(それだけでは皆無にならないが)。これもウイルスへの隷属だ。

感染症対策はそのゼロの考えはとらず、如何に感染の拡大を防ぎ最終的に亡くなる人を少なくするかにある。そして厳密な対策では経済社会が持たないから、ある程度の死者は許容せざるを得ない。新型コロナでは感染しても80%程度は重症化せずに快癒する。医療体制もこの8割はかぜと同様とみなして無症状あるいは軽症の陽性者・患者対応の自宅あるいはホテル療養、軽症病床での治療に仕分けせざるを得ない。戦争でも大災害でも傷病者が多数の時はトリアージをせざるを得ない。その結果、軽症者でその後重症化して死に至る場合があるが、それはある程度許容せざるを得ない。要は確率の問題なのだ。若者で基礎疾患がなければ重症化する確率は低い。それがトリアージ(選択)の考えだろう。

個々の患者に向き合う医療関係者はその回復に献身的に尽力する。そのことに感謝の念は必要だ。人の命はなによりも重い。戦争でも個々の兵士には「君死にたまふことなかれ」の気持ちは大切だ。しかし、この個々への献身と感染症対策では命の選択をせざるを得ないこと、これらを取り違える人がいる。


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