4/25/2007

謝罪は死者に対する冒涜

日本国がその歴史の事実に謝罪するとは何なのであろう。
それが数世代以上前のことだったら、当時の日本国を形成していた国民は生存していない。その国民のしたことに対して、現在の国民が現在の日本国として謝罪しても意味がないし、越権行為でもある。当時の国民は「謝罪しない」かもしれないのだ。死人は自己弁護ができない。
戦争責任とか従軍慰安婦問題など、さらに歴史研究は必要だが、それがどうなっても、日本国が謝罪することにはならない。
それら歴史を省みて、いまの日本がこれからどうする、という話にはなる。慰安婦を戦争に連れて行かない、もちろんその前に戦争はしない、といういまの日本国の姿だけで全てクリアである。

4/23/2007

選挙の結果に見る既成概念の間違い

行政マン(長崎市長選)が当選。
市民派(東京都知事選)が落選。
スキャンダル芸能人(宮崎県知事選)が当選(当選後、まじめだということが判明)
風がどこを向いているということではなく、その地方の選択だ、というしかない。
都民はタレントも市民派も飽き飽きしていたのでしょうね。宮崎は今後次第。長崎は堅実。

4/19/2007

安倍首相は警察を統括する

伊藤長崎市長へのテロ事件に対し、安倍首相のコメント第一声に批判が集まっている。
最初のコメントはその夜のうちに文書で寄せたもので、厳正なる捜査によって真相を解明を、というもので、その簡単さに批判が集まり、翌日にはTV画面で、言論の自由に対する脅威は許せない、との他の政治家と同様のコメントで、カバーしたようだった。
でも、第一声として前者は大切だった。総理大臣は日本国の警察を統括する立場だから、長崎県警を指導すべき立場がまずはあるべきだ。翌日の第二声は政治家・自民党総裁としての声だ。

つまらないことで、揚げ足をとらない方がよい。ほかの政治家で言論の自由的なことを言っていたものも、月並みといえば月並みで、月並みでもよいとする「政治家の義務」「通過儀礼」アリバイ監視はやめるべきだ。

4/17/2007

トウモロコシは食用に

再生可能資源としての自動車用バイオ燃料が化石燃料の代替として注目されている。米国などではガソリンの代わりにトウモロコシなどから作るエタノール、欧州では菜種油をディーゼル燃料へと。
しかし、いずれの原料ともが、食料用あるいは食料生産のための飼肥料としてかけがえのないものだ。化石燃料は減量でき二酸化炭素排出量は確実に減らせても、食糧難になっては本末転倒だ。その結果、発展途上国の国民がまずは飢えることになるから、結果は金持ちのわがままともとらえうる。
あるいは、金持ち国・米国の主要産業・農業を助けるだけに終わってしまう。

各資源にはその資源でなくてはならないものと、エネルギー源のように競合資源があるものとがある。
前者は石油化学原料としての石油とか、前述の食料資源とかだが、後者には石油、石炭、太陽エネルギー(熱、発電)、風力、原子力などがあり、相互に融通でき、そうすべきものだ。
前述の自動車燃料はガソリンとか軽油とかによるのが最適なので、それはそれで賄った上で、発電、暖房などのためを石油以外に求めるほうが合理的となる。

4/09/2007

浅野候補の戦い方

都知事選は石原現知事の圧勝に終わった。石原氏は今回は色々と問題があったのだが、浅野氏側の敵失に助けられた。
民主党でまともな候補が出ていたら、石原氏は危なかったろう。浅野氏の弱点は支援者のウイングが左に広すぎることだ。宮城のときに勝手連と称するそれら支援者に助けられたから、その勝手な支援者を避けるわけにも行かず、仕方がなかった。
ウイングが広すぎると、石原氏との中間の人たちを石原氏側に追いやることになる(無党派層の半分が石原氏に行った)。
左ウイング(勝手連?)は人民戦線方式をねらっているのだ。コミンテルン時代の国際共産党は独自に権力が握れないとわかると、当面妥協し、民主主義勢力の左の一角に寄生したのだ。
その歴史は、民主主義勢力には学習済みだから、二度と引っかからない。

4/04/2007

言葉尻狩り

県庁新採職員への知事訓辞は面白くなければ、若い人だから、心には入っていかない。
東国原宮崎、神田愛知、上田埼玉の三知事の挨拶が言葉尻狩りを受けている。
政治家の発言だから、内容勝負だ。いずれも内容は問題ないものだった。面白くするために、言葉を工夫したのだ。
これに懲りて、言葉を慎重にしたら、役人と同じになって、政治家としての知事の持ち前をつぶすことになりかねない。
柳沢厚労大臣の「産む機械」も同じだった。