11/17/2025

アマゾン熱帯雨林の二酸化炭素吸収効果はない

COP30がブラジルアマゾン川の河口都市・ベレンで開催中だ。国連気候変動枠組条約にもとづくので、アマゾンの熱帯雨林が二酸化炭素の最大吸収源であることを広報して開催都市を決めたのだろう。

しかし、熱帯雨林を含め森林はCO2の吸収源とはなり得ない。樹木も生物なので生存のためのエネルギーは炭素を酸化して得られる(呼吸作用だ)。樹木体を生成・成長させるための光合成は昼間だけの作用で、そのときは二酸化炭素を吸収する(光合成)。光合成が勝るのは樹木が生長し炭素分が樹体に取り込まれるときだ。差し引き二酸化炭素吸収は樹木の生長量に等しくなる。成熟した樹木は成長率が鈍るので、炭素吸収は多くは期待できない。むしろ、成木を伐採(あるいは山火事で焼失)したあとの裸地からの草木の成長過程が二酸化炭素の吸収が最大となる。

細かな比較はできないが、熱帯林を伐採したあとの畑地での収穫物中に炭素量は豊富だ。それを人類の栄養の炭素源とすれば、その分は大気中の炭素を固定したのと同等となる。炭素が循環したことになる。

もちろんだが生物多様性条約に基づくCOPだったら、話は別だ。開拓農地に依存する生態系より熱帯雨林に現存する生態系の方が多様性において豊富だ。森林を守る、といったときの目的を区別することが肝要だ。

熱帯雨林は広葉樹なので季節の変化で大量の落葉がある。それらが地層に固定されれば炭素固定になる。しかし、それらは温暖化ガスのメタンガスの発生源になりはしないか?

11/15/2025

「おもてなし」しない日本

旧聞に属するが、インバウンド客による「迷惑行為」の代表として、コンビニ越しの富士の撮影とか近くの湧水池へのコイン投げ、があった。交通渋滞とか水質悪化が迷惑だというのだ。

そう考えるのは日本人が自賛する「おもてなし」になっていない。インバウンド客は富士山の麗姿の撮影が大目的だ。それが市街地の代表であるコンビニ越しのショットだったら、「マウントフジの特殊アングル」として絶好だ。その観光目的をネット設置で邪魔するまでした。これではおもてなしでなく「嫌がらせ」だ。

私が地元の市当局だったら、コンビニ前の道路は幅広い横断歩道にしどこで渡っても安全にし、反対側に借地をしてまでも撮影広場を設けるだろう。

湧き水の清澄な池の水質に影響があるなら、毎日池底さらいすればよい。コインはその費用に充てる。コイン投げ用の人工池を富士山に向かって設けるのもよい。

すべてはインバウンド客は迷惑をもたらす存在として考えるからこうなる。お互いは世界市民なのだとして理解してあげたい。


11/13/2025

理不尽な値上げが許せない

日本経済はデフレを脱却して一転インフレが始まった。物価高騰に賃金上昇が間に合わなく、生活が苦しくなる。対策として、国はその間の家計収入を補完するべく現金給付とか消費税減税などを検討してきた。

しかし、違うだろう。インフレは昔から生活を直撃してきたが、その値上げの個々には理不尽さを感じるものがあるから声を上げている。ガソリン税の暫定税率は常識からする「暫定期間」を大幅に延長して居座ったままだ。

インフレなのに基礎控除金額が増額されなければ自動的に増税(インフレ税)となってしまう。それを税務当局は奇貨として放置してきた。

いま問題となったコメ価格はおこめ券とかの補助で解決するものではない。消費者が問題視しているのは、コメの価格が高くなった(2倍以上にも)ことで、物価全体のことではない(それも別にあるが)。

過去30年間、そのようにして日本国民は物価の理不尽値上げを個別に監視してきた。そのおかげで供給側は安易な値上げができなかった。その結果が経済的には「失われた30年」と称するならそれでもよい。物価が安定して暮らしがよかった30年だった。

10/21/2025

「高市市場」は反庶民

高市内閣が発足する期待で東証株価が5万円をうかがう高値となっている。ドル円の為替も円安水準に。

これらはいずれも庶民の暮らしの観点からの新内閣期待に基づくものではない。後者の円安だが、輸出関連企業にとって、製品原価がほとんど輸入物資によるドル建てで加工貿易としては為替水準は中立だ。しかし、そのうち国内人件費だけはドル高(円安)になるとドル建て原価の中で唯一減ずることができる。つまりは国内労働者の「ドル建て換算」賃金が円安で安くなることで、製品価格の輸出競争力がでてくる。

つまりは円安で輸出競争力が大きくなるのは、労働者の犠牲のもとからになる。実際、国内労働者の賃金は輸入物価の高騰で苦しくなるばかりだ。円安が庶民の苦しみを増加させるメカニズムだ。

東証プライム株式市場は輸出関連大企業(あるいは対外投資企業)でほとんどが構成される。高市市場で空前の株価となるのは不思議でない。庶民のために物価対策で何をしてくれるか監視が必要だ。それができないサナエノミクスでは次の総選挙で再び退潮すること間違いなしだ。まずは円安是正が試金石だろう。

10/03/2025

近頃都に流行るありがたきもの(続)

子連れの若夫婦だ。

若いカップルはふたりでショッピングなどを楽しみたいだろう。しかし、幼児がいると連れて行かなければならない。結構大変な「デート」になるが、めげずに出かけるのを渋谷でも目にする。

このような家族が日本の20年後を担う子どもを育てる。微笑ましいと同時に頭がさがる思いになる。

かつての渋谷はコギャルに代表される未成年の街だった。それが風変わりしている。

10/02/2025

近頃都に流行るありがたきもの

都と言っても渋谷繁華街でのことだ。インバウンド観光客であふれているのはいつものことだが、その観光客を見るにつれ、外貨を日本に落としてくれるありがたい存在として見えてしまう。

日本の昔は貧乏で、海外から日本にない資源を輸入する外貨が欠乏していた。その外貨を稼ぐ輸出が貿易立国・日本の至上命題だった。いま主要輸出国の米国から輸入を拒否するような高関税をかけられてあたふたしているが、その昔ならそれでは日本が滅亡してしまうほど大事件だ。その外貨を円に両替して消費(輸出に当たる)してくれるインバウンド観光客。当時の「輸出振興」をつい連想してしまった。古い人間なのだ。

だからインバウンド観光客を見ると、心の中では感謝の気持ちを持ってしまう。

ところで、某政党の公約の「日本人ファースト」をみて、特定の外国人排斥を連想する日本人は多いと思う。しかし、特定国の国民がすべて悪いはずがない。人格優れた人もいるし、そうでない人もいる。日本人でもそうだ。人を「〇〇国人だから」という属性で判断できない。

それにしても渋谷の街で外国旅行客間で流行っている1人乗り低車高「ストリートカート」の車列は困る。ただ走るのを楽しむだけでは道路の使用目的から外れるのではないか?日本人が楽しんでいるのを見たことはない。

しかし、インバウンドと無関係の「広告トラック」は広告スペースとして渋谷のメインストリートを占用する。これは日本人が考えたよくないものだ。

9/17/2025

将の代わりに射られる馬(二題)

「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」という故事がある。

将が強大な場合、まずは騎乗する馬を射るのが合理的だ。その将として例えられるのはまずは米国。米国の走狗のイスラエルを代わりに攻めるパレスチナ。そのイスラエルを反米勢力は非難する。それが米国を遠回りに反対することになるからだ。

飯山陽氏によると中東専門家のほとんどは中東情勢を反米の心情から論じているそうだ。

もう一つはアベ一強だ。安倍晋三氏の政治基盤は強く、生前はそれを反アベは崩すことができなかった。死後、山上容疑者が恨んでいて安倍氏が関係していた旧統一教会を全マスコミそろって叩く。馬上の将はいなくなったのに馬だけ追いかけるのはいかにも可笑しい。

8/28/2025

ブームの再エネ、再拡大は時期尚早

釧路湿原の自然保護地域に隣接する普通の地域で、メガソーラー建設反対運動が起きている。丹頂鶴は隣接していればエサを探しに来る。

日本にはメガソーラで大規模に土地改変してよい土地はそもそも残っていない。狭い国土なので、荒れ地と呼ばれるソーラー以外の利用が全くできない土地というものがない。ソーラーはメガでなく、都市に細かく設置すべきものだ。砂漠などの荒れ地が豊富にある大きな国とは違う。

風力発電適地(海域)も同様だ。先進の欧州のように着底が容易に可能な遠浅の海岸がない。あっても干潟漁業と競合する。そこで、浮体式風力発電が叫ばれたが、経済的にはまだ成熟している技術とは言えない。三菱商事はじめが工区海岸の権利を放棄したのは、経済的にペイしないからだ。

再エネにFIT優遇してまで促進したのはよいが、いまは、更に一段の技術開発が必要な時期(階段踊り場のようなもの)で、技術開発の進行を待つべきだ。変動が激しい再エネ発電の調整電源(蓄電池など)の開発も待たなければならないので、これ以上の電力量開発は遠慮すべきだ。

8/26/2025

問題は彫像など公共空間展示

少女裸像が公園などの公共空間に展示されているのは「不快」「恥ずかしい」などとして撤去の要求が続出している。問題はそれだけでなく、公共空間へのすべての彫像などの展示の是非だ。

彫像には単に芸術性を主張するものだけでなく、軍人・英雄の像は価値観を強制するものでもある。芸術性があるかは見る人の主観による。芸術性を感じ「ない」とする人にも見えてしまう公共空間に展示するのは馬鹿げている。美術館なりの閉鎖空間に展示すべきものだ。絵画とか手工芸品は屋外に展示できないこともあり、屋内展示となっているではないか。成熟した日本社会では以上のような万人に向けた配慮が必要だ。
特殊な空間にそれに適した像を設置するケースはある。私も行った、台湾の烏山頭ダムでの八田與一像。そして、長崎の平和祈念像(芸術性はない)。

芸術でも音楽は街中に流して通行人に聴くことを強制はしない。

韓国人によって世界中に慰安婦(を象徴する)少女像が設置されている。これもその設置都市での公共空間への配慮が求められるケースだろう。慰安婦が強制連行されたかどうかは議論の上、結論が得られるまでに象徴展示を強行するのは意味がない。

8/15/2025

戦禍の語り継ぎだけで再びの戦争はなくならない

戦禍を後世に伝えて再びの惨禍を被らないようにしよう、というスローガンが叫ばれ続けられた。

しかしこれらの繰り返しで、戦争が終わることはなかった。現に国連の常任理事国で世界の平和に責任あるロシアがウクライナ相手に戦争を継続中だ。

核兵器は大量破壊兵器で非戦闘員まで巻き添えで被害を及ぼす。非人道的そのものだが、通常兵器でも都市空襲に使われる焼夷弾なども同様だ。人間を焼き殺すだけの目的だ。殺人兵器には変わりはない。だから、核兵器廃絶だけでなく、通常兵器の軍縮も同様に進めなければバランスを欠く。

冒頭のスローガンだけでは戦争はなくならない。欠けていることは、国家の指導者が開戦する意志決定したプロセスを検証し、それを否定論却することだ。民主主義国家だったら、それを国の政治の基本とする。専制的国家でも、よって立つ国民の幸福を考えない指導者はいないだろう。戦争は国同士の相互作用だ。防衛的戦争という逃げ道があり得るが、それも厳密に成り立つのか検証する。

直近の第2次世界大戦も「勝てば官軍」的戦後処理しかなされてこなかった。それに少しでも異を唱えると「歴史修正主義」だとして排撃されてしまう。そうでなく、終戦後数十年を経ているからこそ戦勝戦敗両側が冷静になって戦争の意志決定の歴史検証議論ができる。

以上が戦禍の語り継ぎに加わってこそ再びの戦争を防ぐ方法だ。